小室圭氏で思う 心のない社会
秋篠宮眞子殿下の婚約内定者として小室氏がテレビに現れたのを初めて見たとき 私はなんとなく違和感を覚えた
この男は普通の人間とは何かが違う と直感的に思ったのである
後からその原因をよく考えてみると ちょっと思い当たるポイントがあった
それは「心がこもっているかどうか」 である
一見すると非常に誠実で真摯な小室氏の受け答えと、氏が実際にやっているタカリのようなような卑しい言動には、相当ギャップがある。
このような人種は、平成や令和の時代になって現れた 新しい人種である
氏の表面的な言動のほとんどには 全くと言っていいほど心がこもっていない。
昭和の時代の人に聞くと、昔はよく食卓で飯粒を1つでも残してしまうと、これは農家さんが心を込めて作ったものだから残すのは失礼だと言って食べさせられたという
また日本には古来から 言霊 つまり言葉には心がこもっている と言う諺がある。
このことから日本人の多くはもっともっと何をするにつけても心を込めて作業をし、心を込めて喋ってことがわかる
しかし この食卓における親御さんの注意も、言霊と言うフレーズも、平成令和の時代ではほとんど耳にしなくなった。
それは、食卓でご飯を食べる人々が 心を込めずに飯を食べるようになった。一方で、作物を作る農家の大半も、心を込めずに作物を作るようになった
誰もが心を込めずに暮らすようになったのだ。
資本主義の進展とともに、野菜や米などについても、売れるかどうか、ブランド価値を高められるかどうか が重視されるようになった。
つまり多くの農家が自分たちが作る作物を、金を得るためのツール としか捉えなくなったのだ。
また言葉についてだが、普通の人間はまず何を言おうかよく考えた上で そのあと適切な言葉をチョイスして口に出す。そのため心と言葉は常にリンクしている。
しかし 最近増えてきた人種は、最初から言葉を相手を惑わすための道具としか思っていない。相手を自分の思い通りに誘導するための道具として 言葉を発する。そのため、心が全くこもっていないのだ。
最近人気のあるアニメーション、ドラマ、音楽などのサブカルチャーを見ていても、全く心がこもっていないと感じることが度々ある。
心がこもっていないもの同士が、お互いがお互いを誘導するために、心のこもっていない会話をして騙し合う。
よく新卒の就職活動でも、息を吐くように嘘をつく方が合格しやすい と言われるようになった。
お互いがお互いを平気で欺きあい、だまし合うことが、日本社会のコミニュケーションにおいて、なんと主流になってしまったのだ。
なんと情けないことであろうか。
要するに今の世の中は、生まれつき心がない人間にとって とても過ごしやすい世の中 ということだ。